差別と貧困 (日本教育新聞2012年12月10日)

私は小学生の一時期を外国で過ごしたことがある。当時はその地域で唯一の“ガイジン”でありアジア人、黄色人種であった。「差別」といういじめのターゲットになった覚えがある。こぞっていじめようとしたのは、既にその国で長い間マイノリティーとして差別と偏見の中で暮らしてきた被害者たちであった。

弱いものが自分よりさらに弱いものを求めていじめることでバランスを保つのだと感じた。そう思うと、それほど腹は立たず、恐怖心もなかった。それよりも言葉が解らないところで、どうやってコミュニケーションをし、生きていけばよいのかと必死だったと思う。

学校は小人数制のクラスで、生徒の理解度によって同じクラス内でも課題が違うグループを一人の先生が見ていた。担任は一番信頼できる生徒を一人指名して、私のサポートに充てた。私が少し言葉が理解でるようになるまで、マンツーマンの授業はクラスの端っこでしばらく続いた。私は同じ年齢の生徒から学び、その生徒は既に身につけてきた知識や文化などを思い出しながら私に教え、互いに成長していく。まさにピアサポートの実践だった。

残念だが、今も大人に限らず、子どもの社会にも差別や偏見はある。子どもたちが親や地域社会から学んできた結果である。ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)、虐待、そしていじめも同じである。暴力は身近な人間から学ぶものである。

子どもが暴力を学んでしまったのであれば、学びを通して、暴力を振るい落とすチャンスがあって良いはずである。そのような思いが暴力防止プログラムを開発するきっかけとなった。

下町風情豊かな都会の話である。給食が唯一のまともな食事だという子どもが多く暮らす。私たちがプログラムを実施した小学校の校長先生は毎朝正門で子どもたちを出迎え、「今日も良く来たね、給食をたべて行きなさい!」、夕方は「明日の給食も美味しいから学校にいらっしゃい!」と声を掛けていた。豊に見えるこの国のそこかしこで、このような光景が見られるのではないだろうか。

大切にされたい、互いに違いを認め尊重し合う、これは誰でも持っている当たり前の気持ちである。

いつの間にか、この当たり前のことが通らない世の中になってしまった。

日本は先進国の中でも子どもの貧困率が高い国の一つだといわれている。社会は不条理に満ちているし、様々な格差も存在するが、せめて子どもの時、少なくとも教育の場では、差別も格差もなく、誰もが尊重される体験をしてもらいたいと思う。

その体験が、自然と、自尊感情として身に付け、人を育む軸となる。

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